2022年12月18日 返ってきた東條英機の草履
始まりは、今年の4月。
アメリカのとある男性からとあるメールを頂いたことに始まる。
「父から受け継いだものの中に貴方のひいおじいさんの遺品があるのでそれをお返ししたい」と。
実は、この方のお父さんは終戦当時、まだ20代の若者で、巣鴨プリズンの看守を務めていたという。
そして、曾祖父が巣鴨プリズンから東京裁判の議場へ赴く際にはその護衛の任務にあたっていたようで、その時のご縁から当時の遺品をいくつか持ち帰っていたようだった。
それがこちらの草履。
こちらは、片方の一足しかないのだが、実はこちら、最後の最後、曾祖父が絞首台に臨む時に履いていた草履なのだという。
まさか、このようなものを今、目にするとはまったく思わなかったが、私としてはそれ以上にありがたいことがあった。
それが、この看守を務められていたお父さんから直接ご本人が聞いていた話で、「東條英機さんは大変素晴らしい人だった。あんな方が死刑になるのはおかしい」と。
そして、彼から頂いたメールにもこう綴られていた。
「he spoke highly of your Father(彼は貴方のお父さんのことを賞賛していた)」。
実は、この看守の言葉と曾祖父が米国看守にとった最後の行動は、その関係性としてものの見事に符合する。
本当は巣鴨プリズンで彫っていた木彫りのマグカップもあるはずとのことでしたが、どうやら従兄弟の家にあるかもしれないとのことで、こちらに関しては、現在、調べて頂いている。
本当に、こうしたものを長年きちんと保管し、ご遺族のもとに戻すべきと行動された彼には感謝しかない。
しかも、奇遇にも、その男性の住む家は私がロサンゼルスでしめ縄プロジェクトを行うにあたり、現地でその旗振りを担ってくれた女性の住む家から車でたった20分たらずの場所だったという。
これこそ、奇妙な巡り合わせの結果と言えるのかもしれないが、その後、彼女は直接、彼のもとに行き、この草履を受け取りに行ってくれた。
そして、今回、迎えた岡山でのしめ縄プロジェクト。
実は、この女性とご縁を頂いたのも、こちら岡山での講演の時の話で、彼女の実家が岡山でその帰省のタイミングで出会ったことらすべては始まった。
その後、何度となく、ロスへ足を運んだ際には彼女が面倒をみてくれて、私からみればまさに米国の母とも呼べる存在だった。
そして、この岡山神社で突然、彼女は現れた。
手にはその草履があった。
たまたま年末のタイミングで戻って来られたそうで、こうして、およそ、8ヶ月の時を経て、私のもとにこの草履が返ってきた。
まずは「ごくろうさま」と心の中でつぶやく。
ほんと、世の中、不思議なご縁の巡り合わせで動いているものである。
草履には「KIDO」とも呼べる文字も記されているので、もしかすると「木戸さん」との間違えなのか、はたまた、「K1D0」といった囚人番号のようなものなのか、その具体的な真相までは不明だが、曾祖父と看守の奇妙な関係性、そして、時代を超えたご縁は確かなものとして、私もいつしか再び訪米する際には、この草履をお渡しくださった彼のもとへご挨拶に伺いたいと思っております。
東條英利